「またね」の顔

 人に会って、楽しかった、また会おうと言われることの嬉しさに、最近しみじみするようになった。色々な理由で会えなくなってしまう、会わなくなってしまう人は人生にたくさんいるということが経験で分かってきたからかもしれない。思い出すけど会えない。会えるのかもしれないけど会わない。それが当たり前になる。
 
 高円寺に子ども食堂などの活動をしているエルガーハウスという団体があって、そこの代表の方とご縁があって知り合いだ。この間、エルガーハウスの活動紹介をどこかで目にしたとき「『はじめまして』が『またね』になる」と書かれていた。
 
 僕は恵まれた環境で育ったと思っているけれど、それでも孤独に陥ったり、孤独にわざわざ近づいたりしたことがある。そんな日々を過ごすと「今さら会わせる顔がない」という気持ちになる。思い出せる顔や名前はあるのに、そのどれもに会えないという事実(だと思っているもの)に苛まれる。そんなとき記憶を辿って、誰かが自分に「またね」と言っていなかったかを思い出そうとする。社交辞令でもいいし、もはや記憶違いでもいい。想像の中のその人の口が「またね」と動いていなかったか。ひとり見つかれば、会いに行けるかもしれない。「またね」にはそういう効果がある。
 これは言葉の力のようだけど、僕たちの思い込みの力の話でもある。またね、と言いそうな顔で過ごそうと思う。