電波はどこまでも届くけど

更新が滞っててすみません。さて。
大学のとき友達とバンドを組んでいて、あまり難しくなくて自分たちが好きになれそうな曲をコピーして遊んでいた。たいして上手くもないのにネットで知り合った他の友達に「初心者3人でバンドを組むけどベースがいないから練習に来てほしい」と言われ、その人が通う白金高輪にある大学の防音室に赴いたのだった。彼女たちが練習していた曲はすっかり忘れてしまったけど、友達が好きだったのがポルノグラフィティだったのは覚えている。ポルノグラフィティのファンって、みんなこういう真面目で明るい人たちなのかなと思ったことも含めて。
 
100万人のために唄われたラブソングなんかに
僕はカンタンに想いを重ねたりはしない
「恋セヨ」と責める この街の基本構造は
イージーラブ! イージーカム! イージーゴー!
想像していたよりもずっと未来は現実的だね
車もしばらく空を走る予定もなさそうさ
そして今日も地下鉄に乗り
無口な他人と街に置き去りね…
(ポルノグラフィティ「ヒトリノ夜」)
 
今読み直すとこれはずいぶんと都会的な歌詞だなと思う。自分を見失わないで君の人生を貫いて、と歌うために地下鉄とか無口な他人を引き合いに出す感覚は、茨城に住む子どもだった僕には無かった。たぶん、多くの歌は都会で書かれていたんだ。今ならこの歌詞が言ってることも、ポルノグラフィティが好きだった友達のこともよく分かる気がする。
「100万人のために歌われたラブソング」がそもそも無くなった今になってもきっと言えるのは、お互いのことを本当はよく分かっていなくてもバンドを組むことはできるし、大事な気持ちを交換することができるということだ。歌詞のように時間が経って理解することもあるし、過去に向かって届かない感謝を伝えることもできる。