何かあったら言えよな
人に手助けをしたり、話し相手になっているうちに自分の方が救われているというのはよくある話で、言いようによっては人間関係とはすべてそうなのだと考えることもできる。学校の仕事というのはその極地みたいなものだったと思う。トラブルの渦中にある生徒に声を掛ける。思い悩む生徒の気持ちをただ聞く。そういう相手に選んでもらえることも、信用されることも、ただ成り行きで話し相手になることも、どれも当たり前なんかではない。選ばれたとて僕たちはおおいに不完全で、振り返ると全然上手く動けなかったなと思うことも、事態を悪化させてしまったかもと悔やむこともざらにある。でも、そんな体たらくでも「助ける側」として動いているうちに、自分の方の働く気持ちが楽になったり、何かできるかもしれないと前を向ける理由になったりする。もちろん、生徒の不運や不安を栄養にして働くようなことはあってはならないけど、卒業を見届けて数年後に「あ、あのとき僕は救われていたんだな」と思うこともあった。きっと、こういうことが色んな人との関係で起こっている。
実は、実際に役に立ててるかはそんなに重要じゃないのかもしれない。
「困ってそうだから声をかけてみようかな」と誰かに対して思うと、自分がしっかりしなくちゃと思って頑張れたりするし、気持ち安定したりする。声を掛けた結果がとんでもなく余計なお世話だとしても、こちら側はやって良かったと思えてしまったりする。危ういけど、「自分は何もできないんじゃないか」と思ってぐるぐる内省するよりは、少しマシな気もする。
とは言え、それなりに長く生きてきているんだから、人助けの失敗や空振りもだんだん減らしていきたい。
昔、阿佐ヶ谷の映画館で見たソ連アニメで、人間からすっかり嫌われているくたびれたオオカミが、人間に見限られて森で命を投げ出そうとした犬の危機を救ったあと、「何かあったら言えよな」と言い残して森に帰っていった。できることなら、このオオカミのように、しっかり相手を救った上でかっこよく去りたい。でもまだ、「何もなくても言ってね」とか言いたくなってしまう。